そして、本日の午前中に大学事務局から内線電話があり、米国人講師が会いたいと待っているとのことでした。1階まで降りていくとBussines is Combatという昔の本をいただきました。ここまでは順調です。
そこで会議室で話を聞くことになりました。話し出すと相手は止まりません。2時間の話を聞くことになってしまいました。こちらはほぼ口出しできません。それもそうです。英語でこんなに難しい話ができるわけがないからです。自分の生い立ちから始まって、米国で医学部を卒業し、数学と工学に強く、ノーベル賞受賞者の助手をしていた、と続きます。コルベットに乗っていた頃の写真まで見せてくれて、車はスポーツカーしか興味が無いといいます。
英語は複雑で速いし、当然よくわかりません。後半は日本語にしてくれたのですが、それがかえってあだとなり2時間です。
言葉とは便利なようで、時に人の活動を阻害する要素を持ちます。いくら良い話でも15分でおさめないと相手の時間を奪います。仲間と思ってくれたのは良いのですが、午後からの会議に間に合うか心配でした。
これが現実です。複雑な米国人の会話には対応できません。専門用語も出てきます。嫌だからと断ることも出来ません。数年間必死に勉強したくらいでは、高度な会話には何の効果もないといえます。特にここまで叩かれると、人より英語の能力は低いのではないかと思い始めました。
そうはいっても、自分の専門分野のことを簡単な構文と単語で言えるようになれれば良いのです。そのレベルに達するのは20年先でも構いません。
こう言い聞かせながら帰って来ました。本当に英語はできるようになるのでしょうか。受験で浪人していた頃はZ会で英語と国語は全国トップレベルでしたが、いまは平凡な力しかないとさすがにがっくりきます。
出張先でシルバーバーチ様の本を音読していたら、どんなときにも人のためになれば、それだけで貢献していることになる、との言葉がありました。これをなぜ思い出したのかというと、その米国人は体が弱くて家にこもって猫としか話していない日々だそうです。ですから、私に話し相手になってもらいたかったのだと思います。そう考えると、人助けにはなったという見方もできます。
そして、自分の力の現実もよくわかります。分不相応の能力を求めてはなりません。常に自戒の精神を忘れません。また、過去の栄光を思い出しても実力の向上には何ら役に立ちません。自分に何ができるのか、より真剣に考えます。しかしながら、英語の勉強は続けます。ここで諦めているようでは、どんな分野の勉強でも修得できません。
さて、この落ち込んだ気分で今夜どこまで勉強と西野流呼吸法、筋力トレーニングができるかが大切です。また、米国人講師とは関わらない方が身のためです。特に勉強にもなりません。
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